概念

負けない技術

『負けない技術』 桜井章一 講談社+α新書

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20年間無敗の雀士が、勝負の世界を潜り抜けた末に到達したある人生哲学が書いてある。メモ書きとして、感じたことを書いておきたい。(おっちゃん、渋い!)

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・『負けない』=本能的な思考
競争意識の中で、「勝ちたい」という限度のない欲を持つのは意味がない。本来の競争意識はもっと動物としての素の部分、本能に近い部分に存在しているもので、それは「相手に勝ちたい」ではなく「相手に負けない」というもの。動物にとって、「負けたら終わり」であって、だからこそ、負けないように闘うが、必要以上の争いはしない。本能的な競争意識は必要に迫られたときにだけ出てくるもの。

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・『何事もスルーする感覚で強くなる』
著者は、一度自分の中に通してから後ろに抜いていくような感覚と定義する。
    「いいもの」は「いいもの」として必要以上にとどめることをしない。
        ∵「いいもの」をに囚われることになるから
    「嫌なもの」であっても、放り投げたり、無視したりせず、必ずスルーしてその存在を確かめる。
        ∵何故「嫌なのか、何がダメなのか」を分かるため
            ↓
∴そうすることで、「いいもの」と「悪いもの」の取捨選択のバランスがよくできるようになる。
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・『表と裏がそろって初めて、「形」が現れる。世の中のあらゆることには、表があって裏がある。現代社会はとかく表だけを取り繕う風潮がはびこっているので、いびつな形になってしまっているものが多い。(中略)要するに人間は、表と裏、両方を自覚して初めて素の自分になれるのだ。人間は善と悪という粘土を絡ませてつくられたようなものなのに、悪を内面に隠し、善だけで取り繕っている人も少なくない。それは、善と悪を表と裏のように分けて考えるからそうなってしまうのだ。中には善の方が悪の分量より多い人もいるだろう。しかし、それはあくまでも分量の違いであって、善と悪を両方持っていることには変わりない。人間を表裏一体と考えるように、善と悪も分けて考えるのではなく、両方持っていると捉えることが大切なのだ。』
今の自分の問題意識と重なるところが大いにあって面白かった。
ロジカルな関係があるか分からないが、著者が「善と悪」を一体として定義するように、これは、「意識と無意識」を一体として捉えることと重なった。友人Inabaさんと昨日話していたことで、自分の中で起こったこともストンと納得できた。
「意識の領域」では、当然、外からくる情報や自分の感情を、意識化された「形」あるものとして捉えて、情報を整理し、理解する。ロジカルかどうか、「意識の上にある」価値観に照らし合わせて "right" かどうかにより、整理し、情報も感情も取捨選択が行われる。
その一方で、「無意識の領域」では、「意識の領域」から落ちてきた外れ物がたまっていく。「形」として捉えられないもの、不要なものとして外れていった情報や感情、感覚的なものがたまっていく。
自分の中で、その両方が存在することを受け止めていないと、「無意識の領域」に溜まったものによる自分への仕返し的なものがおきる恐れがあると感じることがあった。
「無意識の領域」は当然雑多なものが混在しており、往々にして、意識の世界で「捨てられた(不要な)もの」が積み重なっているが故に、「無意識の領域」はどんどんと淀んでいく。それがある一定のところまで来た時に、疲労、熱、体の痛み、精神的な痛みとして表面化してきて、ひどいときはバイオレンスの方向に行ってしまうのかもしれない。
実際、(今考えれば大したことのないようなものだが)自分が予想しない反応を自分の体がしてしまうことを初めて体験した。発熱、頭痛、体のきしみ、こわばり。全て突然出てきたものだったが、シンプルに言えば、社員が辞めることになり、それにより自分に大きくかかった「ストレス」が原因だった。社員が辞めるから忙しくなることよりも、自分の中で色々な感情と情報の整理が行われ、その結果捨てられていったもの達の突発的な叫びに近い反応だった。
両方が自分の中にあること、「意識と無意識の領域」が自分の中にあることを受け止めること、そしてそこであるタイプの取捨選択が行われていることを受け止めること、「無意識の領域」に落ちていくものにも光を当てて、「捨てるもの=悪いもの」ではなく受け入れること。それが、「善と悪の両方を一体として捉える」構図と非常に似ているように感じたので、自分に面白いメッセージを投げかけてくれたと思った。
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この他にも、色々と共感する言葉が多かった。
・プロフェッショナルとは、一つのことを究めるだけではないと思う。他の要素もいっぱい持っている人が本当のプロフェッショナルなのだ。学力もあれば、心身のタフさもあり、柔軟性もある。
専門家には、一つの考えに固執したり、固定観念にと割られたいしている人が多い。
証明型の文章ではないし、経験則で帰納して書かれた文章ではあるが、自分の感覚的に思っていたことを言語化しているところや、自分の呪縛になっていたところに光を当ててくれるようなところが良かった。

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今年のまとめ①興味関心の広がり

今、まとめている。今年をまとめようとしている。友人まきちゃんが言っていたけど、やっぱり整理することは気持ちいい。混沌としていて言葉にならない、むずがゆいもどかしい自分がいる。自分の中をお掃除することで、新しい年を迎えようとしている。

別に、来年になって続きをやったっていいのだけれど。

STEP1は、自分の興味関心の広がりをまずは言語化。そのあとで、読んだ本から面白いと感じたことを写経のごとく、ひたすら書きうつそうかなと思っている。for 自分。

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2009年 今年の興味関心の広がり

《問題意識① ライフワーク》
◎GOAL
ビジネスの世界で、日本人の持つプラスを効果的に世界に広げる、世界に発信するにはどうしたらよいか。
・スポーツや芸術の世界のように自分達の能力が一目で抜きんでているのを分かってもらえる世界ではないとすると・・・・
・単に自分達が高コストで作っている商品を一目で利点があると分かってもらえる世界ではないとすると・・・
やはり一人一人の懸命に仕事をするビジネスパーソンたちは、言語を使って、何らかの形で自分達の力を一人一人が証明していく・表現していく必要が出てくる。

◎HOW?
相手を対等な人間として、リスペクトしうる人間として扱うという前提で、以下のことが必要では。
1)相手が理解できる言語で、かつ自分の意図が正しく表れる言葉を使う、
2)相手のロジックに則った、かつ自分の意図が正しく表れる方法+量で説明を行う、
3)相手に誤解なくメッセージが伝わる動き、表情、目、声の表し方をする
4)上記1)~3)を悪意なく、だますのではなく、利己的にならずに、嘘がなく正直に、誠意をもって行う

ただ、それらを可能にするためには、「自分達」を知らずにはうまく実行することは難しい。
なぜなら「自分達のメッセージ」の奥にあるものが言語化できなければ、整理できなければ、相手に自分を理解してもらうことは難しいから。
例えば、
なぜそれをやっているのか、
なぜそれを大事だと思っているのか、
なぜ日本語であればこの言葉を使って説明しようとするのか、
なぜこのような表情や動き方をして相手に伝えようとしているのか
感覚的なもの、抽象的なもの、伝統や習慣や価値観が裏に流れていることを自己認識し、できるだけ説明しようとすることが『知』にすることであり、かつ相手への誠意の表れにもなる。

『知』の形にして相手と共有すること、形にならないことは「形にならないという『知』」として共有すること。何でも言葉にすればいい、ということではなく、言葉をうまく利用して『知』のやりとりをすること。日本はそういう知的な関係性をもって、他国と、英語圏と対等に渡り合えないか。

◎2009年のテーマとなったこと:日本人の根底に流れるものは何だろうか。言語、宗教、哲学、歴史から具体的に掘り下げて、その後で帰納して仮説立て⇒検証サイクルへ

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《Tomoの問題意識② 自分のライフ》
◎GOAL
よりよく生きるとはどういうことだろうか。つまり、自分が自分の定めた枠や殻の中で閉じずに、周囲のものからプラスのものを受信し、吸収し、一方で発信し、放出するためにはどうあればよいだろうか。

◎HOW?

《受信し続けると同時に、発信し続けるアンテナを持つこと》
□受信アンテナ:
人間として様々なプラスエネルギーを吸い込み、マイナスが来たときにも余裕と全体像を失わない視点で(決して否定的、シニカルにならない視点で)学びを得たい。自分のぶれない思考軸を持ちながら、いいものを能動的に選択しつつ、同時に受動的に受け入れたい。その両方があることで、情報溢れるこの世界の中で、自分の思考のバランスを作られるのだと思う。

□発信アンテナ:
発信アンテナも同時に必要。受信型だけの限界は、
・自分の枠を超えられない。自分だけの思考軸に留まりがち
・自分の思考が言語化されず、意外と曖昧なまま、感覚的なままになっていることが多い
・アイディアが外とぶつかることへの免疫ができない。逆に他者が怖くなってしまう
逆にいえば発信するアンテナがあることで、
・他人と共有する目的で「発信できるように自分の中で形にする」ことができる
・他者とぶつかりあう、共鳴し合うインタラクションにより、何か別の、より素晴らしいものが生み出される体験を通し、自分と他者との関係がより深いものになる
・「自分」の枠を超えてアイディアが他のよりよいものに変わっていくことができる
・「自分」の枠を「自分」が心理的に超えられる

《感覚的であり、論理的であること》
□感覚的:
直感で捉えた感覚を大事にし、アイディアとしてもやっとした状態であっても惹かれるものを掘り下げる。ロジックで組み立てることからスタートしない、一見バラバラと発散したアイディア群も、後で収束させることを考えれば捨てることはない。広がりを捨てないで、後で整理することを考える。

□論理的:
感覚的に出てきたものをそのままにせずに、「ある形」にしようとすること。論理立ててブロックを積み上げるためには、ブロック自体が明確に何を示したいのか、そこに光をあてること。ブロック同士の違いをできるだけクリアに定義すること。定義しながらも、線引きして切り取ったものの間に残された可能性のあるものを意識すること。複合定義を大事にすること。(AかつBかつCである、というアイディア)

《言葉を大事に使うこと》
・言葉がある物事を切り取って表したラベルだとすれば、日本語の、英語の世界の切り分け方を学ぶこと。その定義とそれぞれの違いを意識して言葉を学ぶこと。そして、それを意識して使うこと。
・言葉が生きものであることを認識すること。つまり、生き物である以上、その生きてきた変遷・歴史を学び、それをベースに今存在しうる言葉の意味をより深く理解すること。

《生きること、死ぬこと》
何かを考える一つのとっかかりとして、物事の対義的な要素を考える。
「Aであること。つまり反Aでないこと。」
「Aであるのか。反Aであるのか。」
・よりよく生きるために、よりよく死ぬことを考える。
・生きているのか、生かされているのか。
・わたし と あなた
・自分 と 非自分(他者)
・内と外
・今と昔
・現在と過去
・点(「いま」というこの瞬間)と線(過去からつながって存在する「いま」)
・自分と父母
・女と男
・妻と夫

◎2009年のテーマとなったこと: まず、自分を取り巻く世界をよりよく、より深く知る。特に、時間軸(横:左右。過去現在未来)と、空間軸(縦:現象と根底にあるもの。ポッと浮かぶアイディアと深い分析)を大事にすることで理解する。

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普通はこういうのを年初にたてるんでしょうか。私は発散→収束型アプローチが好きなので、年末に「あぁ~テーマはこういうことだったんだ」と発見しちまいました。

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存在

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元の生活に戻ってほっと一息ついた。やっと、自分のペースが戻ってきたような、そんな安心感がある。

今、「人は死ぬから生きられる」を読んでいる。茂木健一郎さんと、南直哉さんの対談本。

まだ半分くらいだけれど、in+spireされている。息が吹き込まれて、自分の内部が膨らんでいる。こういう感覚になる本はそうはない。

膨らんでる感覚は、自己と一体になっている「体」という器の中で、空洞になっているように「自分」の中にいる「自分と認識できるヤツ」がばたばた自由に遊べる、暴れられる、そんな空間が広がる感じ。自分が手を伸ばして伸びをしているような自由さがある。

電車の中でちょうど茂木さんが南さんに恐山に会いに行っていたシーンがあって、自分もその中に15分くらい、トリップしていた。

突然ぷしゅーっと、電車が最寄駅についた。

私は勝手に電車を降りた。

こころはトリップ中のまま。体が勝手に動いた。

あ、やっぱり「自分」というこころとはどこか別のプログラムで、自分の「からだ」は動いているんだな~、と 前にブログで書いた 「自分」が考えている場所 の延長線上のことを感じていた。それをまた深く考えたいなぁと、恐山にいる風景と映像の中、そんなことを思っていた。でも、そこで思考が止まらなかった。

階段を降りる前にふと風が吹いた。

寒い、と自分は巻いていたスカーフをきゅっと握りしめた。そのあと階段を降りながら、自分は前髪を直したり、ほっぺをかいたりした。

あれ。ふと気付く。

体が勝手に動いている。

自分の恐山の脳内世界と同時に、現実の世界で自分が勝手に体を的確に動かしている。体が勝手に動いたのではない。体を動かした別のものが確か自分の中にいる。

自分は3つになっている。

「自分と認識できるヤツ(こころ1)」

「周囲の影響を意識して反応してるヤツ(こころ2?)」

「こころ1とこころ2に反応する体」

え、私は心と体の2つではなく3つかも?と思い、頭の中では恐山にいながら、自分の目の前にある風景を見つつ、体が勝手に動くままに自分の体と指令しているこころ2?の動きを観察した。こころ1によって。

うわ、こころ2と体がくっついて勝手に動いているよ。無意識と意識の間で、自分が勝手に動いているよ。何も考えずに信号の前でとまった。ダイエーに入っている途中で首をかいた。子供がいて目があって笑った。

そう、やっている自分の中で、別の自分くんは存在している。

3つで考えると、直観的にはすとんと理解が落ちた気がする。

精神と心理と肉体というアカデミックな意味での、概念の分割ではなくて、Trinityのように互いに作用しながら動いているような。うわ、make sense to me.

結婚式のときですらそうなんだけど、周囲に見られている自分を操っている自分と、自分の中でもっと自由にばたばたしてる自分はやっぱり意識として別で、これが2重人格の人か?と思うくらいその2つの自分に距離がある。

こころ2は、自分が見ている世界とつきあって思考しているやつ。私がやった前髪直す動作って、生理現象でもないし、前髪の位置が気持ち悪いことを検知して動いていたわけでもない。ただ、どっかで「髪の毛崩れたような気がする~変な髪になってるよ~」という自意識に縛られた気持ち。

こころ1はもっと奥深くに隠れていて、他者とほとんど会うことがないからこそ自由に生息しているようなやつ。

paradoxical blendは人の中に共存するものだろうけど、この3つが別個のように存在しつつ、それぞれが共存している事実にふと気づいてしまって驚き。

これ、深めたいです。

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つづき。今朝本を読み進めてたら、おぉ、似たようなことが書いてあった!ちょと感動。自分が感覚的に思ったことが言語化されていると、やはり嬉しい気持ちになる。

そしてココロを動かした文章は、やはり書きとめておきたい。

P93から抜粋

章:「自分が自分である」根拠はあるのか

『茂木 なんか複数の自分がいる状態ですね。(座禅が深くなり、自意識がもろいものであるというのが分かったときのこと)複数の自分が1つの身体を争っているって変なんだけど、そういう感覚でした』

P96

『茂木 ・・・・・つまり、自己が一つじゃないという話自体は面白いけど、近代資本主義との整合性を考えた場合、矛盾ばかりが出てしまいますからね』

『南 結局、自己っていうのは作っていかなきゃいけないものなんですよ。どの条件でどう作るのか、そしてその条件を引き受けるのか引き受けないのかを決断しなければいけない。・・・・それでは、どのような自己を作っていくか。・・・・・・(中略)・・・・・・では、どの自己で行くのか、もはや自分できめなきゃならない・・・』

まだ読み途中だけど、自分のベースがどこにあるのかって、やっぱり生と死の両方が存在しているのだと思う。そこは切り離せない。だから、この本はとても響く。仏教的な考え(原始仏教の方かな)も、だから響いてくる。

ベースがそこにある状態で、生きようとしている。未来に向かって進もうとしている。近代資本主義の仕組みの中で、絶え間なくすごき続ける人間同士の関係をよりよいものにしようとしている。なんとも複雑に入り組んでしまった世の中だろう。

何らかの「形」になろう、と一生懸命に動いている日常。

とりとめのない文章を書きながら、これが動いている「今」であることを感じる。

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開閉のリズム

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地球は閉じた世界でありながら、宇宙に向けて開かれている。

進む方向に確信はあったけれど、ここのところ焦りがどこかにあった。
環境の変化に伴い、自分の世界が閉じていくことへの不安。
基本は開いていた世界が閉じていくことへの恐れ。

でも、

それは「基本が開いていた」からのではなくて、
「基本が『開く⇔閉じる』のリズムを自分のペースで作ることができたから」
なのかもしれない。
1人暮らしだったから、そのリズムは作りやすかった。インプットを沢山、思いのままにすることができて、自分のペースでアウトプットして、そのリズムを自分のコントロール下で作ることができた。

リズムがポイントになる。
開かれなきゃいけないと思っていた。

でも本当は違っていて、両方があって、かつ両方が一定の鼓動を打つことができて、初めて安定してくるものみたい。

そういえば、マッサージを受けている整体師さんが言ってたことを思い出した。体の穴は一定のリズムで閉じたり開いたりしていることが必要だって。閉じすぎていてもダメだし、開きすぎていてもダメ。開いたら閉じることができるように、開いたら閉じることができるように、そのリズムを自分の中で刻むことができるように。

呼吸も同じ。
深く吸いこんだら、しっかり吐ききらないとだめ。吐ききったら、自然と吸っていくことができる。

自分のリズムか。リズムだ。
リズムが崩れていることだ。

今日からリズムを刻み始めることを意識しよう。

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言葉のかけら

もともとロジカルに思考することが苦手な私は、直感が働くことが多い。もやっとした思いつきのようにも見えるけど、でもどこかで何か自分にとって意味のあることにつながってくる気がして。常に直観精読ができればいいんだけど、どうも、頭を使って生きてこなかった人間だから、そう簡単に点と点が線につながらない。

それでも、以前は一人暮らしだったので、何かを思いついたときに、「1人」で深く思考を掘り下げていくことができたのだけど、最近は2人暮らしなのでそうもいかない。

敬愛するsachiolinさんのブログにあった、「カケラ」メモ。

これはいい!と思って私もブログにときどき掲載しようと思い始めた。自分の思考が収縮してしまわないように、オープンなものにすることで、外から何かの刺激を得られるかもしれない。ここねくりまわそうとしていたものを、まずかけらの状態で出しておく。それでいい!

私の中に常に問題意識としてある、 日本と欧米との関係性の共通項と相違点。

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○連続性を求める

×スタートとエンドを求める

○円

×線

○スタンダードが匠のレベル

×スタンダードはそこで求められる最低限のレベル

○感覚世界 (Sensing)

×抽象世界 (iNtuitive)

○事実

×意味づけ

○「こころとからだ」

×「こころ」と「からだ」

○ハード

×ソフト

日本の今の国民性を作り上げているもの:

・四季折々の風土。循環する風土。2つよりも多い変化をもたらす風土。

つまり、生と死が、現象として目の前で抽象的に繰り広げられる世界にいる。

・ハイコンテクストな環境。読み取る環境。ファクトからイメージを帰納する環境。

・「ソフトで勝負!」ではなく、「ソフトはいいけれども、ハードという目にみえる形にするので勝負したい」。

ハード=外側に現れているもの が、中味のクオリティーの高さを表すもの 

外側のクオリティーは、中味のクオリティーがいいかどうかで勝負が決まっている。精巧であればあるほどGREAT

・前提は、ずーーーーっと一緒、連続性のある関係が根本にある。

そのうえに積み重ねられてきた制度、文化、慣習。長期雇用、匠を意識した育成、あいさつ、組織。

・「システムかっちり、汎用性あり、一度固定したら変化しない」、ではなく、「日本のシステムはいろいろ、ばらばらの中の秩序、アナログの変化」

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話は変わって。

今日Shinさんの過去のブログ記事が、私を呼んでいた気がした。Shinさんが今中国から一時帰国しているからかな。

去年のものを読ませてもらっていて、あるエントリーに改めて、感激してしまった。Shinさんが友人のISさんから紹介してもらったという詩にぶつかった。

「わたし(たち)にとって大切なもの」長田 弘

何でもないもの。
朝、窓を開けるときの、一瞬の感情。
熱いコーヒーを啜るとき、
不意に胸の中にひろがってくるもの。
大好きな古い木の椅子。

なにげないもの。
水光る川。
欅の並木の長い坂。
少女たちのおしゃべり。
路地の真ん中に座っている猫。

ささやかなもの。


ペチュニア。ペゴニア。クレマチス。
土をつくる。水をやる。季節がめぐる。
それだけのことだけれども、
そこにあるのは、うつくしい時間だ。

なくしたくないもの。
草の匂い。樹の影。遠くの友人。
八百屋の店先の、柑橘類のつややかさ。
冬は、いみじく寒き。
夏は、世に知らず暑き。

ひと知れぬもの。
自然とは異なったしかたで
人間は、存在するのではないのだ。
どんなだろうと、人生を受け入れる。
そのひと知れぬ掟が、人生のすべてだ。

いまはないもの。
逝ったジャズメンが遺したジャズ。
みんな若くて、あまりに純粋だった。
みんな次々に逝った。あまりに多くのことを
ぜんぶ、一度に語ろうとして。

さりげないもの。
さりげない孤独。さりげない持続。
くつろぐこと。くつろぎをたもつこと。
そして自分自身と言葉を交わすこと。
一人の人間のなかには、すべての人間がいる。

ありふれたもの。
波の引いてゆく磯。
遠く近く、鳥たちの声。
何一つ、隠されていない。
海からの光が、祝福のようだ。

なくてはならないもの。
何でもないもの。なにげないもの。
ささやかなもの。なくしたくないもの。
ひと知れぬもの。いまはないもの。
さりげないもの。ありふれたもの。

もっとも平凡なもの。
平凡であることを恐れてはいけない。
わたし(たち)の名誉は、平凡な時代の名誉だ。
明日の朝、ラッパは鳴らない。
深呼吸しろ。一日がまた、静かにはじまる。

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こういった細やかな描写こそ、日本人らしさ、日本の美しさを感じるところ。これが感覚世界の私たちにみえる世界。そこからあるがままに無理やりでない意味・価値を感じ取ることができる私たち。

そういえば、「ボクノート」にもかけらが出てきたな。ボクノートヤッパリ好きだな!

『 今僕が紡いでいく言葉のカケラ
一つずつ折り重なって詩になる
キレイじゃなくったって 少しずつだっていいんだ
光が差し込む 』 

僕のノートがかけらでいっぱいになりますように。

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「自分」が考えている場所

Wtr0059024_m (自分の中の世界のイメージは、青ですね。)

よく、腑に落ちないとか、腹に落ちるとか、言うけど、人が「おぉ、分かった!」って感覚になるときって、おなかのあたり、または内臓をさしてる。

ここに何かいるらしい。脳みそでない何かが。

英語でも、gut feeling = 内臓の気持ち = 直感で、日本語とおなじとこをさして言う。gut instinct = 内臓の本能 = 直感も同じ。

なんでこんな話になっているかというと、これが最近、自分の中のちょっとした流行なので。

この前後輩の恋愛相談にのってたのがきっかけで、ふとした時間に、「彼女(後輩)と合うのはどういう人かなぁ」「自分はなんで相方とつきあって、結婚するんだろう」など考えていた。ベッドに入って、色々と、あーでもないこーでもないと思い巡らせていたときに、ふと気がついたことがあった。

私の体はベッドの上で動いていない(呼吸はしているが)。でも、自分の中の自分はものすごいバタバタしている。「こうかな~、いや、どうかな~。こういうこともあるしな~、こっちはいいかな~」などとあっちこっち自分が考えているとき、自分の中にいる自分の場所を感じた。

胸のあたりに、確かに「意識としての自分」がいる。少なくとも私の感覚では。

そう考えると、はて。私の隣でぐーすか寝ている相方の中にも「意識としての相方」がいて、それが彼の体の中でバタバタと動いたりしているのかな。とすると、「意識としてバタバタしている自分」は、実は、相方の体の中にいる「「意識としてバタバタする相方」と会話をしているのか。とすれば、自分が見ている相方には顔も体もあるけれど、「意識としてバタバタする(バタバタしていないかもしれないけど)相方」と私は話をしているのか。

おぉ~~~そうかっ!とすると、自分は「この人と合うなぁ」と思っているときは、その人の体の中にいる「その人」と話をしていて、そう感じているのかもしれない。

ガンダムの中のアムロ青年のような位置に、「自分の意識くん」がいるような気がする。そして、基本的に自分は「自分の意識くん」のいる場所から感じて話をしている人なのかも、と思ってきた。腹まで下にいかないけど、胸付近。ちょうど胃の位置かな。

一方、脳みそのある場所(頭の表面)で話す私もいる。仕事のときによく登場するけど、ロジカルに外の情報を分析して理解したり、発信したりするときには頭で喋っている気がする。

両方を使い分けてみてもいいかもしれない。ロジカルに客観的に分析的にみるときは、脳みその表面(?)で考えて話す。相手を思いやった上で話をする、自分の思い、感じたことを伝えるときは、胃のあたりで考えて話す。

教えるときにもうまくいくかなー

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流動していたいから

「今」を切り取ると、自分は固定された1つになってしまう。

「過去」からの連続を1つ1つ切り取ると、ばらばらにみえてしまう。

でも自分は1つであり、常に変化する物体なわけで、相手から見ても自分は1つのようでいて、複数の、ともするとばらばらなものに見えるわけで。

自分をこう見て欲しい、相手にこう見られる、という自我に縛られた固定された世界にはもういたくない。変化する自分をそのままありのままに受け止める、受け止めてもらう、いや、受け止めてもらわなくてもいい。ただそのままでいることをよしとしてもらえればいい。

ごちゃごちゃなものがごちゃごちゃなままだから、それこそ声を出して歌を歌って、脳をからっぽにしたい。音楽に任せて自動的に躍って、思考から自分を放したい。全力で走って、鼓動と呼吸と疲労を感じたい。

友達の紹介してくれたダンスのリハーサルのYouTube画像を見て、その振付、演出?をしている方の言葉を聞いたら、そう感じた。

時を同じくして、ダンスを見に行った友人達の感想を見て、脳が更に刺激を受ける。

自分のアンテナが周りのものを意味づけしようと、必死になっているかのように、受信してくる。それが味わえるレベルを超えて、消化できない状態になる。ファクトがなだれ込んでくる状態だから、離れたくなる。

でも。

意味を感じることが嫌いになったわけじゃない。ただ処理できない、それだけ。

そういえば、一人で旅をしていない。去年はイタリアに行ってたなぁ。

今年もどっか行きたいなあ。どこか遠くへ・・・

そんなわけで、また、ブログのバックグラウンド画像を変えた。2ヶ月に1回は変えてるんじゃないか。定期的に変えることが目的でなく、自分が変化していくと付属のものを変えたくなっているだけかも。

でも、すっとシンプルに行こう! そう思わせてくれるデザインでした。

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戯言:インプット⇒こねくりまわして煮込む煮込む⇒アウトプット

アウトプットを意識して、インプットをするわけではないけれど。でも、インプットからアウトプットに行く途中の状態のまま、物事を置いておくと、最近フラストがたまる。

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0)インプットする

     ↓

1)インプットしたもの=ファクト・無機的な情報 を、自分なりの理解にまとめる。新たなアイディアにつなげていく。「あぁ、これって、こういうことなのか」「これがこうなるってことは、これと似たものではないか/対立するものではないか」

     ↓

2)言語化してアウトプットする

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フラストの理由。なぜだろう。

2)は時間が必要。

2)は言語の力が必要。

案外、2)にするためには1)が不十分 というところに原因がありそう。

とすると、2)でフラストなのは、1)が生煮えだからかな。

たぶんそう。

こねくりまわして煮込む煮込む

それが足りないようだ。

とすると、フラストの原因は1)かな。

1)を煮込むために、物理的にだけでなく、精神的に「独り」でいる方が自分はやりやすい。「独り」を感じる時間が確かに最近少ない。それは人生にはいいことでもある。でもどこかでまとめないと、生煮えで腐ってしまうようで、怖くなるときがある。

閉じ始めてきているのか、怖い。

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「読書について」 ショーペンハウエル

「精神も、他人の思想によって絶えず圧迫されると、弾力を失う。食物を取りすぎれば胃を害し、全身をそこなう。

精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。つまり精神は、たくさんのことを次々と重ねて書いた黒板のようになるのである。したがって読まれたものは反芻され、熟慮されるまでに至らない。

だが熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後で更に考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。しかし一般に精神的食物も、普通の食物と変わりはなく、摂取した量の50分の1も栄養となればせいぜいで、残りは蒸発作用、呼吸作用その他によって消えうせる。」

今日は少しだけこねこねする時間を取って、寝よう!

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ほんとに戯言。日本人のコミュニケーション

最近特に「空気」や「和」や「場」について考える機会が多くなって、それがゆえに、日本人の英語でのコミュニケーション方法が気になる。もどかしい。うぅ。。。

先週偶然、2日連続でそんな場面に出くわした。そのうちの1つだけ・・・・・・ごめんなさい、どうしても自分の中ではもやもやしているから、内容をアップします。

木曜は、外国人ビジネスパーソンが参加するブレックファストミーティングに参加してきた。米国商工会議所に登録をしている人たちが集う場で、主目的は互いのネットワーキング。ただ、必ずプレゼンと、そのテーマの質疑応答が行われるので、それを学ぶ目的で参加することもできる。

今回のプレゼンの内容は、「日本人クライアントとどのようにして良い関係を築くか」日本の某有名(らしい)コーチング・コンサルティング会社のCEOのプレゼンが行われた。これが・・・・・・・・・・・・・

日本語だときっと良いのかもしれない・・・・・・・・英語はそれなりにうまいし、表現も、発音も美しい方なんだけど・・・・・・正直英語ベースで聞いていると、なんか言い切った感じが気になった。また、文化論のような複雑でセンシティブな内容を、丁寧に論じるでもなく、単純化して言っていることが気になった。そのスピーカーも優れた方だと思うので、批判するつもりは毛頭ないのだけど、でも、往々にして文化論を語るときに、単純化してしまって、このような公の場で発言されているのを聞くと、非常に残念でしかたない。ましてや、日本人が外国人ビジネスパーソンに向かって、あまりに単純化した形で話してしまうと誤解も生まれやすいように思ってしまう。だって、日本人が「日本人代表」みたいに発言していれば、妙に説得力をもってしまう。それだけに危険だ。

少なくとも、推察をしないで、純粋に英語だけを聞いたプレゼン内容のサマリーはこう:

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『日本人は「場を読む」ことを重要視する。これは古来から日本人が、侵略された経験がなく、島国で生活してきたために「自分」と「他」とを分けて考えてこなかったことによる。

(「自分」と「他」とを分けて考えなかった例:「登山=アクティビティ、レジャー」という概念を持ち込んだのは、200年前に西洋の人間が持ち込んだ考え方だ。我々日本人は山に対して、登るという意識はあっても、それを娯楽のように「征服するもの」のようには考えてこなかった。これは、自然と人間が一体化しており、そこに「自然」と「人間」=「自」と「他」のような境界線はなかったからだ。)』

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この辺は面白い。たぶんもっと深く掘り下げられそうだし、山本七平の「空気の研究」や「比較文化論の試み」でも取り上げられていた内容に近いし。

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『だから、日本人には、「自」と「他」の区別がない。ゆえに、一体化された「自」と「他」の間では、同じ共有された「場」があり、暗黙のうちに何がそこで必要かを察する感覚を持ち合わせる。ゆえに、「場を読む」=他の周りの人たちがどんな反応をしているのか読んで反応する人を日本人は好む。周りの人がいる前で、「自分」を主張しようとする西洋人のような反応はまずしない。長期的に仲良くなって、場を読んでいく。

(「場を読まない」ことのマイナスの例:帰国子女が日本に帰ってくると、自分を主張しようとする。例えば映画を見終わった後で、誰かが「この映画面白かったね~」という。そうすると自分の意見を主張しようとする帰国子女はこう言う。「いや、この映画つまらなかったわ」と。そこで、わざわざ自分を主張する必要はないにも関わらず、本能的にそうしてしまっているが、それは「場を読んでいない」ことになる。みんなはしらける。また別の例は、学校でリーダーを決めるときも、日本の場合は「場を読まなければ」いけない。学級会などで、自分から「リーダーになりたい」と主張するのはよくない。リーダーになりたければ、周りの人にそれとなく自分がリーダーになりたいことを伝え、それにふさわしい行動をし、それで初めて、リーダーとして周りから自分を選出してもらわなくてはいけない。)

この点をあなたたち(外国人)はきちんと押さえなくてはいけない。』

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この辺から論が粗くなる印象。日本人の無意識の反応や趣向を知ることは大事。でも一方、その感覚をもつことの利点は何なのか、結局外国人のビジネスパーソンは何をヒントとして持ってかえって、日本人とのビジネスの場に活かせばいいのか?帰国子女の例と、リーダーの例を聞いた外国人は、何を学びにして、何を意識していけばよいのか。もう一つクリアでない。。。

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『ただ、外国人へのグッドニュースは、同時に日本人は「場を壊す」人も好む。進んでリーダーシップをとって、その場の雰囲気を逆の方向に持って行くような人も好む。日本人は場を読むのに疲れているから、時々壊したらいいですよ。

(日本人が「場を壊す」人を好む例:①小泉首相の例。②自分の経験談。クライアント候補だった、あるエグゼクティブがいた。全く人の話を聞かない人だったので、私はその人に言ってあげた『あなた、ほんと話聞かない人ですね~』と。そしたら、相手は『お、こいつ、なかなかやるな』という風になって、私はそのクライアントをゲットできた、なんてこともあった。「場を壊す」のを案外日本人は求めている」)』

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内容は、確かこんな感じ。

うぅー、もう書いていて、正直なんか正しいことを言っている部分があるだけに、途中の具体例の入れ方、メインポイントと説明部分のリンクが粗いところがつい気になってしまう。。。ここでのポイントは、「外国人ビジネスパーソンが、日本人クライアントとうまくいくための方法」がテーマだったはずなのに、何がポイントかがイマイチクリアに描かれていない。

日本人が「場を壊す」人を好む例なんて、外国人からすれば、「え?日本人エグゼクティブって、奇をてらった物言いをこっちがすれば、相手は自分を信頼してくるの?そんな形でビジネスを得てるの?アホらしい」と思ってしまうんじゃないか、と、心配になった。実際にその発言をしたスピーカーだって、色々なことを(直感的にでも瞬時に)考えて、「このエグゼクティブなら、この言い方でも大丈夫だな」というhunchがあって初めて、そういう言葉を投げたんじゃないかなと思う。言う人、言われる人のキャラクターにもかなり寄るだろうし、コンテクストもだいぶ違っていて、エグゼクティブとしても、コンサルタントとして自分の教育をしてくれる人に言われるのと、社内の外国人に言われるのとでは全く違う印象を受けるのでは・・・・なのに、そのプロセスも何にも説明のないままその例を言っているのは危険!とつい思ってしまった。その人にとっても、損じゃないかなー、エグゼクティブが自分の専門性を買ってくれたのではなくて、自分の「場を壊す」力 or キャラクターでビジネスをくれた、みたいな印象を与えるなんて。きっと様々な経験と専門性もあるだろうに。

文化論を語るのって、難しい。だからこそ、丁寧に考えて整理して、丁寧に分析した上で、言語化したい。相手に自分たちの文化を、誤解なく、変に低くみられることなく、変に優位にたっているように響くことなく、お互いの文化がお互いの違いを受け入れ、リスペクトしあえる形で語ることを目指して、それが異文化の方にも分かるように伝えられるようにしてから、こういった場に立ちたい。後何年かかるかな~修行を続けなきゃ。

もう一つ思ったことは、日本人エグゼクティブが、「外国人から信用されにくい」ことの大きな一要素として、「話の流れ・論理構造」がありそうだと改めて感じた。丁寧表現ももちろん大事だけど、まず、言いたいポイントが何なのか、やっぱりクリアに伝えられないことの方が、コミュニケーションの障害が大きいのでは。エグゼクティブコーチとして200社以上コーチングをやっているこのスピーカーですら、質疑応答の答え方を見ると、ほとんど全て背景から入って回答しているか、具体例だけを挙げて終わっていた。例えば、「日本人の若い人と、年配の人の間で、『場を読む』ということについて違いがあるように思うのですが、世代感で感じ方の違いはありますか?」という質問に対して、彼の回答は「山一證券がつぶれたときに、そこの取締役達が泣いて謝罪したんですね、そこでそれを見た若い人たちは、保守的な雇用の安定はないなと思って、自分がスキルを磨かなきゃと思ったンですよ・・・・」と始まる。うーん、質問は『世代感の違いがあるか/ないか』ですが、それと山一證券はなんだったのか。外国人の人たちの表情は曇っていた・・・そのまま最後まで言ったが、質問にずばり答えていない。ほかの6問の質問に対しての、回答も似たような感じで、とても残念。外国人の人たちも、複数の似たような質問を、別の言い方でスピーカーに聞いていたが、イマイチピタッとした回答が出てこない。残念。

彼の話の回答の仕方にはパターンがあって、これは自分の生徒達でも良くある典型的な日本型の流れ

 ・具体例から入る(往々にして、一見面白そうだが直接は関係ない例を挙げてくる)

 ・答えを言った後で、それに関しては特に関係ないこと・例外的なことを補足的に言う(「Aですね。ただ、こういうこともありますね」)

  ・自分が主張した内容の、説明や理由が入らない

かっこいい日本人をつくるためのコミュニケーション力強化の道はまだまだ続く・・・

長くなってしまった・・・失礼しました。

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村上春樹の「エルサレム賞」

村上春樹の「エルサレム賞」受賞による、講演を勉強会の仲間TIさんから紹介してもらいました

人間(=卵)が、本来は自分達(弱いもの)を守るために作り上げたはずの『システム』(=壁)によって、結局翻弄されている現在の世の中。システムの中で、思考を停止させて、システムのままに従うことはある意味楽なこともあるけれど、そのままではダメになっていく。そのシステムが違う方向に向かい始めたときに、常に思考し、それを発信していかなくてはいけない。

卵の周りには、それこそ本当に色んな材質で、色んな高さで、色んな色や模様のある壁がある。もう、それこそ上から見たら、幾重にも重なる迷路が出来上がっているかもしれない。時に壁を倒したり、壊したり、時に壁は壁としてあるまま、ドアを作って道が出来たり・・・でもあまりにも重なりすぎてしまって、どうにもこうにも出口が見えなくなっているかもしれない。

『システムに食いものにされないように』するには、しっかりと自分達を制御することが重要で、『壁』というものが、必ずしもシンプルに「イイもの」なだけの存在ではないし、逆に「ワルイもの」なだけでもないし、その両面を包括したものなのだという認識をもって、かつ壁に向かって問いを発信し続けるのが大事なのかもしれません。<・p>

日本人にはかなり苦手ば分野ですよね・・・山本七平を読んでいても常に出てくる「日本人の『他者との比較、違いを認識し、言語化する力』のなさ」を実感します。ただ、そんな中でこうやって村上春樹が日本人として世界で上記のメッセージを発信していたことに、私個人は強さと勇気を与えられました。まだまだ捨てたもんじゃないぞ、日本人!

クリントンのスピーチにあったLegacyの一節、

I believe we’re moving into a world where our interdependence with one another will be critical in maintaining our independence as nations and as individuals.

これって、なかなか興味深いなと思って、昨日のクラスが終わってからも考えていました。「互いの国レベル、個人レベルで独立や自由を守るために、相互依存が存在する。」ある意味、壁の存在を認めながら、壁にドアを作って行き来できるようにしているようにも見える。何も壁を壊すという発想に必ずしもいかなくていいのだ!

ただ、この場合は前提として、『独立』を守るための手段として「interdependence」について言っているとすると、ある意味私の大事にしている「他があって、自分がある」の価値とちょっと違うのかもしれないなぁ。

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