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③主語と述語

友人いなばさんのブログから刺激を受けて、思ったこと。

「共時性」

コトバ。
僕らが日常使うコトバは、主語と述語で表現していくシステムだ。 

主語・述語の関係を日々使って話し、考えているから、無意識に因果律に支配されやすいのだろう。 

だから、そこを超えるために、詩人がいるし、芸術が存在しているのだと思う。 

「主語と述語」を小テーマに持ってくるのは面白い。(ナイスセンス!いなばっち!)

日本人はそれでもまだ主語と述語を自由に使って、自在に想像力と表現力を膨らませることのできる言語を持っていると思う。

日本語はいわゆる「ウラル=アルタイ語系」の膠着語であり、助詞があることで主語はあらゆるところに来ても大丈夫、述語は最後まで決めなくていい、そういう自由度がある。なので、修飾語を大量につけて、世界を膨らませて、述語動詞をおかずにつらつらと文章を続けることができる。修飾語を長くつけた結果、「~とは思わない、かもしれない」のように、今まで言ってたことのどんでん返しみたいなことも、このタイプの言語だからこそできる。

一方の英語はというと、「印欧語族」であり、基本的に順序で意味をとる必要があるため、日本語のように自由自在に主語や述語を好きなところにおくことはできない。主語を置いたら、すぐに述語動詞をおかなければいけない。さっきの例でいえば、「~思わない、かもしれない」は、英語なら "主語 may not think... " とさっさと結論をださなきゃいけないので、最後でオチがくるようなことはあまりない。英語の言語体系には、最初に結論っぽいことを決めないと先に進まない、そういう不自由さが出てくる。そこに想像力を膨らませる限度が来てしまうのでは?

自由自在に変化できる、外の状況を勝手に取り込んで、自分流に立場や状況を変化させてもいい、という日本らしい発想は、まさに言語体系からも来ているのでは?

そんなことを考えさせられる、thought-provoking なテーマでした。

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②HERO - BANK BAND 2005-

">Mr.Children HERO

BANK BANDバージョンは本当に良い。友人いなばさんと前に見て、かなり印象的だったけれど、それ以来この映像を何回見たかわからない。そして、毎回涙を流してしまう。

昨日聞いて、また涙した。

桜井さんの気持ちが、想いの強さが、念のように、見えないエネルギーでこちらに向かってくる。自分の心に振動が強くぶつかってくるので、ただただ涙が出るばかり。

例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして
僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ
愛すべきたくさんの人達が
僕を臆病者に変えてしまったんだ

小さい頃に身振り手振りを真似てみせた
憧れになろうだなんて大それた気持ちはない
でもHEROになりたい ただ一人 君にとっての
つまづいたり転んだりするようなら
そっと手を差し伸べるよ

ダメな映画を盛り上げるために
簡単に命が捨てられていく
違う 僕らが見ていたいのは希望に満ちた光だ
僕の手を握る少し小さな手
すっと胸のよどみを溶かしていくんだ

人生をフルコースで深く味わうための
いくつものスパイスが誰もに用意されていて
時には苦かったり渋く思うこともあるだろう
そして最後のデザートを
笑って食べる君のそばに僕はいたい

残酷に過ぎる時間の中で
きっと充分に僕も大人になったんだ
悲しくはない 切なさもない
ただこうして繰り返されてきたことが
そうこうして繰り返していることが 嬉しい 愛しい

ずっとHEROでありたい ただ一人 君にとっての
ちっとも謎めいてないし 今さらもう秘密はない
でもHEROになりたい ただ一人 君にとっての
つまづいたり転んだりするようなら
そっと手を差し伸べるよ

最近どんなに遅く仕事をしても、ミスチルを寝る前に聞いている。人間、いろいろあると、一つのものに集中してしまうのか?

ミスチルは本当に人を救うパワーがあるなぁ。桜井さんすごいなぁ。12月1日のアルバム、心待ちにしています。

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①顔をあげて

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気が付いたら前のブログからもう半年くらい経っていた。

アメリカ出張から戻って、そっから何をしていたか一生懸命思い出さないと分からないくらい、気持ちが走ってしまっていたように思う。

いろいろやっていたんだろうけど、イマイチ思い出せない。

自分が育ててきた後輩が辞めることになって、同期が育休から戻ったばかりで、いろいろ自分が背負わなきゃいけないものが多くなったように感じたからかもしれない。

この前、ふと通勤中に顔をあげたら空がきれいだった。紅葉も目に飛び込んできた。移りゆく季節をようやく本当の意味で感じた。そんな他愛のないことに、一人、感動した。

不思議なもので、目に入ってくる映像がテレビを見てるかのように、移りゆくものに過ぎない時がある。電車の中で、ただただ一定のスピードで過ぎていく景色を見ているような。目には移っているけれど、心に届いていない。画像は目の前にあるけれど、registerしていない。

受信感度が鈍くなり、日々色々やりながら過ぎていく毎日があって、それ相応に、一瞬一瞬が楽しかったり、うれしかったりもあるのだけど、自分自身が立ち止っていない。なんか、自分をよく見て、周りをよく見ていない。そういう時期だった。

当然、自分から色々と発信するモードが薄くなった。ブログの更新ストップはまさにその兆候を現していた。友人たちのブログを訪れる回数もめっきり減った。

11月になって、友人の美容師さんの店長就任祝いがあって、彼に、彼が好きそうな本をプレゼントしようと思い、「デッドエンドの思い出」をあげた。中国にいる、Shinさんから勧められた本で、私も本当に好きな本。友人Rちゃんも大好きなよしもとばなな。

なんとなく、よしもとばななを思い出した。ほんとに、思い出すっていう感じなくらい、心理的に離れていたみたいだった。

翌日、なぜか衝動的によしもとばななの本を買った。

ハゴロモ。王国。

よしもとばななのお話は、今の自分にとっては、よどんだ空気が流れる部屋の窓を開けるような、体にさわやかな空気を吸い込むような気持ちにさせる。

窓を開けると、外の風が少し冷たくて、寒いけど気持ち良くて、変なにおいが混ざって入りこむこともあるけど、でもそれが自然なことで。

窓を開けると、人の楽しそうに笑う声や、時には言い合う声も聞こえてきて、うるさい時もあるけど、でもそれが自然なことで。

そういう、当たり前の、自然の空気の流れを、自然な人間の営みを、当たり前のものとして、温かく感じさせてくれる。人間への愛情を感じずにいられない。

また復活してきたかな。

ちょっとそんな自分にうれしくなった。

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