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存在

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元の生活に戻ってほっと一息ついた。やっと、自分のペースが戻ってきたような、そんな安心感がある。

今、「人は死ぬから生きられる」を読んでいる。茂木健一郎さんと、南直哉さんの対談本。

まだ半分くらいだけれど、in+spireされている。息が吹き込まれて、自分の内部が膨らんでいる。こういう感覚になる本はそうはない。

膨らんでる感覚は、自己と一体になっている「体」という器の中で、空洞になっているように「自分」の中にいる「自分と認識できるヤツ」がばたばた自由に遊べる、暴れられる、そんな空間が広がる感じ。自分が手を伸ばして伸びをしているような自由さがある。

電車の中でちょうど茂木さんが南さんに恐山に会いに行っていたシーンがあって、自分もその中に15分くらい、トリップしていた。

突然ぷしゅーっと、電車が最寄駅についた。

私は勝手に電車を降りた。

こころはトリップ中のまま。体が勝手に動いた。

あ、やっぱり「自分」というこころとはどこか別のプログラムで、自分の「からだ」は動いているんだな~、と 前にブログで書いた 「自分」が考えている場所 の延長線上のことを感じていた。それをまた深く考えたいなぁと、恐山にいる風景と映像の中、そんなことを思っていた。でも、そこで思考が止まらなかった。

階段を降りる前にふと風が吹いた。

寒い、と自分は巻いていたスカーフをきゅっと握りしめた。そのあと階段を降りながら、自分は前髪を直したり、ほっぺをかいたりした。

あれ。ふと気付く。

体が勝手に動いている。

自分の恐山の脳内世界と同時に、現実の世界で自分が勝手に体を的確に動かしている。体が勝手に動いたのではない。体を動かした別のものが確か自分の中にいる。

自分は3つになっている。

「自分と認識できるヤツ(こころ1)」

「周囲の影響を意識して反応してるヤツ(こころ2?)」

「こころ1とこころ2に反応する体」

え、私は心と体の2つではなく3つかも?と思い、頭の中では恐山にいながら、自分の目の前にある風景を見つつ、体が勝手に動くままに自分の体と指令しているこころ2?の動きを観察した。こころ1によって。

うわ、こころ2と体がくっついて勝手に動いているよ。無意識と意識の間で、自分が勝手に動いているよ。何も考えずに信号の前でとまった。ダイエーに入っている途中で首をかいた。子供がいて目があって笑った。

そう、やっている自分の中で、別の自分くんは存在している。

3つで考えると、直観的にはすとんと理解が落ちた気がする。

精神と心理と肉体というアカデミックな意味での、概念の分割ではなくて、Trinityのように互いに作用しながら動いているような。うわ、make sense to me.

結婚式のときですらそうなんだけど、周囲に見られている自分を操っている自分と、自分の中でもっと自由にばたばたしてる自分はやっぱり意識として別で、これが2重人格の人か?と思うくらいその2つの自分に距離がある。

こころ2は、自分が見ている世界とつきあって思考しているやつ。私がやった前髪直す動作って、生理現象でもないし、前髪の位置が気持ち悪いことを検知して動いていたわけでもない。ただ、どっかで「髪の毛崩れたような気がする~変な髪になってるよ~」という自意識に縛られた気持ち。

こころ1はもっと奥深くに隠れていて、他者とほとんど会うことがないからこそ自由に生息しているようなやつ。

paradoxical blendは人の中に共存するものだろうけど、この3つが別個のように存在しつつ、それぞれが共存している事実にふと気づいてしまって驚き。

これ、深めたいです。

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つづき。今朝本を読み進めてたら、おぉ、似たようなことが書いてあった!ちょと感動。自分が感覚的に思ったことが言語化されていると、やはり嬉しい気持ちになる。

そしてココロを動かした文章は、やはり書きとめておきたい。

P93から抜粋

章:「自分が自分である」根拠はあるのか

『茂木 なんか複数の自分がいる状態ですね。(座禅が深くなり、自意識がもろいものであるというのが分かったときのこと)複数の自分が1つの身体を争っているって変なんだけど、そういう感覚でした』

P96

『茂木 ・・・・・つまり、自己が一つじゃないという話自体は面白いけど、近代資本主義との整合性を考えた場合、矛盾ばかりが出てしまいますからね』

『南 結局、自己っていうのは作っていかなきゃいけないものなんですよ。どの条件でどう作るのか、そしてその条件を引き受けるのか引き受けないのかを決断しなければいけない。・・・・それでは、どのような自己を作っていくか。・・・・・・(中略)・・・・・・では、どの自己で行くのか、もはや自分できめなきゃならない・・・』

まだ読み途中だけど、自分のベースがどこにあるのかって、やっぱり生と死の両方が存在しているのだと思う。そこは切り離せない。だから、この本はとても響く。仏教的な考え(原始仏教の方かな)も、だから響いてくる。

ベースがそこにある状態で、生きようとしている。未来に向かって進もうとしている。近代資本主義の仕組みの中で、絶え間なくすごき続ける人間同士の関係をよりよいものにしようとしている。なんとも複雑に入り組んでしまった世の中だろう。

何らかの「形」になろう、と一生懸命に動いている日常。

とりとめのない文章を書きながら、これが動いている「今」であることを感じる。

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