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「後世への最大遺物」 内村鑑三

51hdq00x4rl いまさら街道まっしぐらですが、「後世への最大遺物」 内村鑑三 を読んでみて、今の自分の問題意識にひっかかってくること、ひっかかってくること。

「どう生きたいか」 これへの問い。自分への答えは、変化しつつ、固めていっている最中。

輪廻転生を信じる。自と他の関係が対立的ではなく存在していて、自分が他によって存在しているのだなぁ、と最近しみじみ感じる。

でも、「どう生きたいか」

それは、自分でしか決められない、とどっかで思っている。この想いは上記の感覚と、二律背反しない形で自分の中に存在している。

内村鑑三の書物でたぶん一番短いんじゃないか?と思えるこの文庫本。でも、ココロに訴えかけてくる文章があった。(ちょっと男尊女卑的な書き方をしてる部分はあって、微妙なとこもあるけど。まぁ、明治という、世界観がひっくり返った、そんな時期だしね。)

この人、プロテスタントでありながら、キリスト教的な発想に留まらず、「お金って、やっぱり大事よね」とか、「事業を起こすって、重要よね」とか、結構ずばり言っていて、小気味がいい。日本的。外から入ったものを上手に自分の中に取り入れて、でも前からあったものと衝突させずに融合させる。「いいと思うものはいいと感じて何が悪いの!いいじゃない!素直じゃない!」的な融合が日本らしくて好きかも。

ココロに残った部分をここに残したい。たぶん、また後で読み直すんだろうなぁ。

『私にここに一つの希望がある。(中略)私にこの50年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起こってくる。ドウゾ私は死んでからただに天国に往くばかりでなく、私はここに1つの何かを遺して往きたい。それで何もかならずしも後世の人が私を褒めたってくれいというのではない、私の名誉を遺したいというのではない、ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである

『この世の中にわれわれのMomentoを遺して逝きたいです。』

天文学者ハーシェルの言葉 『わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより世の中を少しなりともよくして往こうではないか』

その遺してゆくものとは何か?

『勇ましい高尚なる生涯。(中略)すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈り物としてこの世を去るということであります。』

悪魔が支配する=人間の中の悪魔が支配する世の中ということかもしれない。人間を結局どう見て、生きるのか。人間というものを、周囲をどう見て生きるのか。これは、価値の選択なのだと思う。どちらを自分が「信じたい」と思うのか。価値判断をしなければ、世の中を信じることはできない。世の中は冷たい部分がたくさんあるし、殺しあう人間達もいる。現実的な数値的割合で、世の中の何%が殺人をしているとか、そういうfact自体で判断するものではない。これは、人間を見て、世の中を見て、もう自分しか判断できる人はいない。どちらを信じたいと思っているのかしかないように思う。

失望と希望は、直訳だと dispair vs hope. アメリカでまさに dispair/fear vs hope という対立概念として民主党の代表が必ずといっていいほど使うもの。クリントンもケリーもオバマもみんな使ったキーワード。問いかけてくるのは「どっちを(心から)信じられるか」ということ。

「どっちがいいか?」と聞かれれば、もちろん、「あんた、そりゃ、hopeに決まってるでしょうが」としか言えないだろう。後はこれが「今の状況下で、hope or fear どっちがいいか?」という質問なら、愚問。そんなもん、hopeの方が誰だっていいに決まってる。(まぁ、大統領選は往々にしてこの愚問を聞いて国民を誘導しようとするスピーチもあるけど)

けど、でも「ほんとにほんとに、自分が心の底から世の中をどう見てるのか、どう見たいのか」という問いかけであれば、やっぱり慎重に考えて自分に問いかけなくちゃいけない。そして選択をしなくてはいけない。うん、私は単なる楽観主義者としてではなく、こっちの価値を選択する。悲嘆と歓喜の世の中というのも同じ。

「何を遺したいか?」というのは、「ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである」という想いをベースにしている。

はっとしたけれど、つまり、根底に、『愛情』がある。人を愛する、温かな気持ちで接する、その愛情が循環している。愛をもって人を見られるかどうか。また愛をもった人とどれだけ自分が接することができて、愛情を注がれてきたか。とても大きい要素。

何か自分にはじーんときた。

クラスの参加者(特に長期コースの参加者)には、色んな人がいる。他の参加者とうまくコミュニケーションが取れない人。なかなか笑顔が出せない人。人と目を合わせられない人。立派な大人だけど、やっぱりそういう人はいる。

大抵、根気強くそういった参加者と向き合っていくと、ぽんっと彼らがブレークスルーすることがある。英語力的にも、人間的にも。

それは、ある環境が整って、完全に動き出した後。ある環境とは、参加者同士が互いの努力と成長を見ることのできる環境。それを喜び合える環境。また、理由なく怠け心で課題をやっていない人には、皆が厳しく指摘・アドバイスできる環境=つまり、正しい行為を喜び、正しくない行為をはっきりと厳しく指摘できる環境。これはこちらの愛情、参加者同士のリスペクト(これもソフトな意味でなく、愛情の一部と考える)が軸として通っているからこそ、互いに時に厳しくなれる。そして、それを個人攻撃やマイナスのものとしてではなく、プラスの意図で言ってくれているものとして取ることができる。オープンになれる。

クラス期間の中盤ごろから、笑顔が出始める。相手からの指摘を素直に聞き始める。課題に取り組み始める。

いい環境に人を置くと、多くの場合、人って変われる。そう思う。そう信じて自分もクラスをやって、その人たちと向き合っている。

そうか・・・自分が伝えていきたいこと、世の中に遺していきたいものって、

「人って、この世の中って、素敵だなぁ。信じてもいいなぁ。」

そう、相手の心にのこるように自分の会った人たちと接すること。うん。素直に人を信じて生きることかもしれない。

『勇ましい高尚なる生涯』なんて、内村鑑三のようには言えないけど、でも素直に人を信じて生きよう。人のいいところを真似よう。よくないことはよくないと、感情の部分を時によって切り離して言えるようになろう。

うん。すとんって落ちてきた。

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