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「歩むための光を受け取る側の喜び」⇔「光を与える側の苦しみ」

■ミサに参列して:

「歩むための光を受け取る側の喜び」⇔「光を与える側の苦しみ今日の上智のミサのテーマは「歩むための光」。内容はキリストが照らしたもう光があるから、私達は前に進めるといったものだったように思います。今日は子供とともに捧げるミサであり、初めて日本語のミサに出たので内容がよく分かりました。

司祭様は、洞窟を例にあげ、「今目の前が真っ暗になったら、どう感じる?どう思う?」「怖いよね?そのときに一筋の光があったら安心して、前に進めるね」というお言葉を言われていました。

でも私は光を見つけて安心する側の気持ちよりも、光を排出するもののつらさを考えてしまいました。思い出したのは、「ツァラトゥストゥラ~」の第2章の「夜の歌」。内容は司祭様がテーマにされたことと逆かもしれませんが、「歩むための光」の有難さという受け取り側の見方よりも、「光を与えるもの、与え続けざるを得ない」ものの苦しさを思ってしまいました。光を得る幸せを得られない、光を与え続けなければならないものの葛藤がその章の節の軸となるテーマです。光を与える存在でありたいと願いながら、誰かから光を享受することを心の奥底から望んでいる自分。偽善と虚偽を感じてしまう、自分の暗闇の部分に触れる思い。普段考えもせずに生きている自分に問題を投げかけてくる、それがミサに参列することのよさのように感じられます。今日は3月11日で、亡くなった友人の誕生日でした。彼が亡くなってから14年が経ちますが、毎年祝ってきました。一昨年から彼のお母さんと一緒にミサに参列させていただくようになり、今日もその大事な日です。初めて「偽善」を感じて苦しかった14歳の秋から、2倍の年月生きてしまって、また14年ぶりに痛みを感じた日になりました。

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