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「歩むための光を受け取る側の喜び」⇔「光を与える側の苦しみ」

■ミサに参列して:

「歩むための光を受け取る側の喜び」⇔「光を与える側の苦しみ今日の上智のミサのテーマは「歩むための光」。内容はキリストが照らしたもう光があるから、私達は前に進めるといったものだったように思います。今日は子供とともに捧げるミサであり、初めて日本語のミサに出たので内容がよく分かりました。

司祭様は、洞窟を例にあげ、「今目の前が真っ暗になったら、どう感じる?どう思う?」「怖いよね?そのときに一筋の光があったら安心して、前に進めるね」というお言葉を言われていました。

でも私は光を見つけて安心する側の気持ちよりも、光を排出するもののつらさを考えてしまいました。思い出したのは、「ツァラトゥストゥラ~」の第2章の「夜の歌」。内容は司祭様がテーマにされたことと逆かもしれませんが、「歩むための光」の有難さという受け取り側の見方よりも、「光を与えるもの、与え続けざるを得ない」ものの苦しさを思ってしまいました。光を得る幸せを得られない、光を与え続けなければならないものの葛藤がその章の節の軸となるテーマです。光を与える存在でありたいと願いながら、誰かから光を享受することを心の奥底から望んでいる自分。偽善と虚偽を感じてしまう、自分の暗闇の部分に触れる思い。普段考えもせずに生きている自分に問題を投げかけてくる、それがミサに参列することのよさのように感じられます。今日は3月11日で、亡くなった友人の誕生日でした。彼が亡くなってから14年が経ちますが、毎年祝ってきました。一昨年から彼のお母さんと一緒にミサに参列させていただくようになり、今日もその大事な日です。初めて「偽善」を感じて苦しかった14歳の秋から、2倍の年月生きてしまって、また14年ぶりに痛みを感じた日になりました。

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和木、お誕生日おめでとう

3月11日。自分にとっては今日はとても大事な日で、15歳からずっと大事な日としてお祝いしています。

日本人学校のみんな、今日は和木の誕生日だよ。

人間にも始まりがあって、終わりが来る。
9月20日。和木の14歳の命が失われてしまった日。私にとってはそこからの人生に対する考え方が大きく変わった日。1993年以降特別な日になった。自分の生き方、死生観の変化、偽善と虚偽の存在の気づき。自分への嫌悪感。癌への憎しみと恐怖。私にとっては本当に大きかった。本当に本当に・・;

あれから14年。和木が生きた2倍の年月が過ぎて、私たちも気がつけば28です。でも和木のことは忘れない。日本人学校のみんなも思い出してね。和木のこと。みんなで喧嘩しながら一緒に遊んだ日々を。頑固で時に泣き虫で強がりでスポーツ馬鹿だった和木を。初恋の人でもないのに、今の私の方が和木のこと想ってるよね。不思議だね。喧嘩ばかりだったのにね。

今日は和木のいるイグナチオ教会に、和木のお母さんとミサに出て、それから和木に会いに行って来ました。2人でお誕生日ケーキまで食べてしまった!和木のお母さんが、笑ってお話してくださって、本当に嬉しい嬉しい時間でした。

和木、28歳のお誕生日おめでとう。

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