トップページ | 2004年4月19日 »

複数の本が描きだす世界 

これまで本を読んでこなかった。というよりは、読んでこれなかった、というのが正しいだろう。漫画中心の人生で幼少時代から本を読んでこなかった私にとって、本を読むことは、それ自体が大きな世界に入り込むことだったので(恥ずかしいことではあるが・・・)、複数の世界に生きる脳みその器用さは、今までなかったように思う。それゆえ、本は1冊ずつ読む!ということしかできていなかった。

しかし今年になってから、なぜか複数の本を平行して読みたいという願望が湧き上がった。1つの本を読んでいる途中でも、他の本も読みたい衝動に駆られたのである。自分でもなぜこのような気持ちに突然なったか分からないが、とにかく読みたいと思ったら何冊平行していようとも読んでみた。すると、不思議な「感覚」を得た。それぞれの描き出す世界を混同することなく、その世界で自分が生きることができる。と同時に、自分が先ほどまでいた別世界が、次に読む世界とどこかつながっている。隣家の戸が、自分の家の戸とつながっているような「感覚」。別の扉を開けて入っていくと、扉の向こうにはきちんとそこでのストーリーが展開されているわけだが、どこか自分の「感覚」は、いままでにいた世界sでの「感覚」も残している。決して今いる世界での「感覚」やストーリーを崩すものではない。そう、自分が幼少の頃から見続けている夢の「感覚」に近いかもしれない。一日に何種類もの夢を見る私だが、私の夢の世界では、全く関係なさそうな事柄が何かの糸sでつながっている。ある夢を見ているときに、別の夢に切り替わる時がある。(これは、夜中に一旦起きてからまた寝る時にも生じるし、寝ていながらにしてもおきることがある。)夢が切り替わった後になっても、自分はどこか前に見た夢の世界での「感覚」を覚えている。それは心地よい「感覚」のつながりとでも言ったらよいだろうか。時に悲しくもあり、恐ろしくもあり、時に嬉しくもあり、安らぎを覚えたりもしてきた。この説明しがたい脳内の「感覚」を、意識のあるこの世界でも味わうことができている。不思議な「感覚」である。

今、全く関係のなさそうな本sを読んでいるが(確かに「孟嘗君」と「楽毅」は時代が似ているのはあるが、国が異なるので別ものと感じている。)それぞれのストーリーをつなぐ、共通の戸がどこかに潜んでいる。ある戸は、5つの世界をつなぐ戸でもあり、また別の戸は、2つの世界をつなぐものである。戸は、大きかったり、小さかったり。中には1つ目の世界では気がつけない戸もある。4つ目くらいで、1つ目の世界から、ずっとつながっていた戸があったことに気づくのだ。戸の大きさは、自分がいかに視点を・意識をそこに置いていたかによる。おそらく、人によって、この戸は異なる大きさとしてそれぞれの人の目に映るのであろう。このような面白い世界が存在したことに、小さい頃に気づけなかった自分を恥ずかしく思うが、今からでも決して遅くはないと思う。色々な本を読んでいきたい。

今までの自分にとって、「本を読む」ということは一つの大きな壁であった。その行為自体に、そこで広がっているであろう未知の世界に、憧れていながらも、時に反発することもあり、もどかしく思うこともあった。だから、今のこの状態を、本当に嬉しく思う。

もちろんまだ不安も残る。いつかまたこの「感覚」が失われることがあるのかもしれないと思うと、怖い気もする。その不安に襲われるときは、読むのをやめて、夢をみようと思う。活字が脳を刺激して描き出す世界から、脳が自発的に描き出す世界へと身を任せていこうと思う。

(1)『孟嘗君』宮城谷昌光 1巻(全5巻)

(2)『楽毅』宮城谷昌光 1巻(全4巻)

(3)『武士道』新渡戸稲造 奈良本辰也訳 ~第8章 名誉

(4)Relationships 101  John C. Maxwell PART I

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トップページ | 2004年4月19日 »